甲子園歴代最高の「右打者(右バッター)」は誰?人気投票ランキング中!

甲子園歴代最高の「右打者(右バッター)」は誰?人気投票ランキング中!

全国の高校球児の憧れの舞台である「夏の甲子園」こと、全国高等学校野球選手権大会(以下、甲子園)!甲子園で繰り広げられる高校野球の熱戦は、プロ野球とは違った醍醐味があります。

そんな甲子園ですが、記憶にも、記録にも残る名選手が数多く生まれる舞台です。卒業後プロ野球の世界で、はたまたメジャーリーグの世界で活躍するような選手が世間に知れ渡るきっかけとなるような大会と言っても過言ではありません。

その中でも、甲子園史上歴代最高の右打者(右バッター)は誰だ?と聞かれたら、皆さんは誰をあげますか?

甲子園に出場する強豪校の打者からは、その後プロやメジャーリーグでも活躍するような超一流の選手が数々生まれています。圧倒的なパワーでホームランを量産するスラッガーや、高い打率とチャンスでの勝負強さをもつアベレージヒッターなどいろんな右打者(バッター)を思い浮かべることかと思います。

そこで今回は、夏の甲子園で活躍した右打者(バッター)を紹介し、「センバツ史上歴代最高の「右打者(バッター)」は誰?」という人気投票のランキング結果を発表します。

まずは皆さんの意見を教えてください♪

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甲子園歴代最高の「右打者(右バッター)」は誰?人気投票ランキング中!のアンケート

「清原和博」PL学園高校

「元木大介」上宮高校

「香川伸行」浪商高校

「平田良介」大阪桐蔭高校

「中田翔」大阪桐蔭高校

「堂林翔太」中京大中京高校

「鵜久森淳志」済美高校

「堂上直倫」愛工大名電高校

「中村奨成」広陵高校

「清原和博」PL学園高校

「清原和博」PL学園高校画像

清原和博は西武ライオンズ・読売ジャイアンツ・オリックスで活躍した球史に残るバッターです。

そんな清原が甲子園の舞台で全国に知れ渡るきっかけとなったのが、1983年の第65回夏の甲子園大会です。1年生ながら強豪PL学園の4番として甲子園に出場しました。 このときのPL学園のエース桑田とともに「KKコンビ」として有名ですが、1983年夏の甲子園から5期連続で甲子園出場を果たしています。うち優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回と圧倒的な強さを誇りました。

歴代最多のホームラン数

清原個人としても、今もなお破られることのない甲子園通算ホームラン13本という歴代最多の記録を叩き出しています。歴代2位の甲子園通算本塁打数は6本と大きく突き放す結果となっており、この数字からも驚異的な記録であることは言うまでもないでしょう。

3年生として迎えた最後の夏の甲子園決勝、宇部商戦(山口)で、この試合2本目となるホームランを放ち、当時新記録となる1大会5本目となる本塁打を記録し、「甲子園は清原のためにあるのか!」という今なお語り継がれる名実況が生まれました。

その実力と実績はPL学園黄金時代とまで言わせしめ、まさに一世を風靡しました。甲子園の数々の名場面を語る上で、清原和博なくして語ることはできないでしょう。まさに名実共に甲子園史上最高の右打者として評価されるべき選手です。

「元木大介」上宮高校

「元木大介」上宮高校画像

元木大介は、「くせ者」の異名で読売ジャイアンツでレギュラーとして活躍した名選手です。現在はTV番組などに出演する機会も多く、お笑い芸人並みのそのお茶目な人柄とセンスでタレント活動も多い元プロ野球選手です。

甘いマスクの天才

そんな元木も甲子園でフィーバーを巻き起こすほどの活躍をした選手の1人です。元木は上宮高校(大阪)で3回甲子園に出場しています。その打撃センスと勝負強さは天才とも呼ばれ、それに加え、端正なマスクも兼ね備えていた元木は、甲子園でアイドルとして大フィーバーを巻き起こしました。特に3年時の夏は、大阪大会や甲子園練習に女性ファンが殺到し、混乱を避けるために上宮高校だけ特別な措置がとられるなど、大変な人気を博しました。

元木はその甘いマスクだけではなく、甲子園通算ホームラン6本という、清原に次ぐ歴代2位の記録を打ち立てていて、甲子園での実績も長い間語り継がれています。甲子園の歴史の中で名打者として名をあげる方も少なくないはずです。

「香川伸行」浪商高校

「香川伸行」浪商高校

香川伸行は「ドカベン」の愛称で親しまれ、1980年代に南海ホークス(現・ソフトバンクホークス)で活躍した元プロ野球選手です。

香川は、大阪の浪商高校(現・大体大浪商高校)で1978年の春、1979年の春と夏の甲子園に出場しました。その力士の様な大きな身体と、高校生離れしたパワーは野球漫画「ドカベン」の主人公・山田太郎を彷彿とさせ、全国の高校野球ファンから大きな注目を集めました。

語り継がれる伝説

1979年春の甲子園では惜しくも準優勝に終わるも、同年夏の甲子園の舞台に戻ってきます。当時甲子園史上初となる、3試合連続本塁打を放ち、春夏含め通算5本のホームランを記録しました。この記録も清原が登場するまで破られることのなかった大記録です。

特に、香川が甲子園で放った1本目のホームランは、甲子園史上記憶に残る本塁打として語られることが多いです。外角低めのボール球を、右膝を地面につけた状態でバックスクリーン左へ超特大のアーチを描き、その規格外のパワーを物語る「伝説の右ひざアーチ」として語り継がれています。

その愛くるしい体型から繰り出されるパワーと、体型からは想像もつかないような器用なバットコントロールから放たれる数々のホームランから、甲子園の歴史に残る右バッターとして思い浮かべる方も多いでしょう。

「平田良介」大阪桐蔭高校

「平田良介」大阪桐蔭高校画像

平田良介は中日ドラゴンズで長距離打者として活躍する右投げ右打ちのプロ野球選手です。

平田は名門・大阪桐蔭の4番として2度甲子園に出場しています。初めて出場したのは、2年時の2004年春の甲子園です。初戦の二松学舎大付高校(東京)戦で甲子園初本塁打を放ったものの、2回戦でダルビッシュ有ようする東北高校(宮城)とぶつかり、無安打に抑え込まれ、惜敗を喫します。

悔しさをバネに戻ってきた甲子園

翌年夏の甲子園に平田は戻ってきます。3回戦まで順当に勝ちあがり、迎えた準々決勝。相手は奇しくも前回の甲子園で敗れた東北高校。悔しさもあってか、この対戦で平田のバットは火を吹きます。

1打席目に変化球をレフトスタンドへ運ぶと、4回裏に回ってきた2打席目でも変化球を捉えレフトスタンドへホームランを放ちます。迎えた第3打席。大きな快音とともに打ち上がった打球はホームランかと思われましたが、フェンス直撃のツーベースとなり、甲子園球場は大きなどよめきに包まれます。そして、試合は7回裏3-4と1点ビハインドの状態で、この試合4度目の打席が平田に回ってきます。真ん中に入ってきたストレートを逃すことなく、バックスクリーン右へ運び、この試合3本目となる逆転ホームランを放ちます。

歴代最多記録の持ち主

1試合における3本塁打は清原と並び歴代最多タイの記録として、今もなお破られることのない記録です。ちなみに、清原が1試合3本塁打を達成したときは、「ラッキゾーン」という通常のフェンス前に柵が設けられた時代で、ラッキーゾーン撤廃後の正真正銘のホームランとしては、平田が史上初の達成です。

準決勝では田中将大擁する駒大苫小牧高校(南北海道)に惜しくも敗れますが、準々決勝の3ホーマーはプロ野球界の目にも留まり、当日中日の監督だった天才バッター落合博満の目にも留まったようです。その縁もあって、平田は大阪桐蔭高校卒業後、中日ドラゴンズへと入団します。

圧倒的なパワーを持った平田ですが、打撃だけに限らず俊足と守備の上手さも高校生とは思えないレベルの完成度で当時の夏の甲子園を大きく沸かせました。まさに甲子園史上歴史に残る右打者としてふさわしい選手の1人でしょう。

「中田翔」大阪桐蔭高校

「中田翔」大阪桐蔭高校画像

中田翔は北海道日本ハムファイターズで活躍する、日本を代表するスラッガーです。

そんな中田は、大阪桐蔭高校で甲子園に出場しています。全国から強打者が集まる大阪桐蔭高校で、1年時から5番としてレギュラーの座を掴み、夏の甲子園ベスト4へ貢献しました。ちょうどこの時の4番が上述した、平田良介(当時3年生)です。

投手としての素質

投手としての素質も十分だった中田は、1年時の秋から4番エースを任命され、2年の春には151km/hをマークするも、肩の故障に悩まされ、バッターに専念する形となります。

夏の甲子園大阪予選で4試合連続本塁打を記録するなど、好調で臨んだ甲子園初戦。8回裏に打席が回ってきた中田は、初級の変化球を振り抜くと、打った瞬間にそれとわかる、おもわずセンターが1歩も動けない、推定飛距離140メートルの超特大ホームランをバックスクリーン左へ放ち、全国の高校野球ファンの心を鷲掴みにしました。

「平成の怪物」の誕生

その後も秋季近畿大会準決勝・市川高校戦にて、推定飛距離170メートルに及ぶホームランを放ち、大きな話題を呼びました。この頃から「平成の怪物」と呼ばれるようになります。最後の夏の大会では、全国に名を轟かせていた中田は、厳しいマークに苦しみ、思うような結果が出せず、大阪大会決勝でやぶれ、惜しくも甲子園に帰ってくることはできませんでした。

甲子園通算4本塁打含め、高校通算で87本の本塁打を放ち、当時の高校通算本塁打の新記録を打ち立てた中田は、まさに甲子園史上最強のスラッガーとして名前のあがる選手でしょう。

「堂林翔太」中京大中京高校画像

「堂林翔太」中京大中京高校画像

堂林翔太は広島東洋カープで活躍する右投げ右打ちの選手です。

堂林は名門・中京大中京高校(愛知)の4番エースとして、甲子園に出場しています。3年春の甲子園では惜しくもベスト8に終わるも、5割8分超えの高い打率をマークし、打者としてのセンスを多いに見せつけました。

春の雪辱を胸に、同年夏の甲子園に堂林は帰ってきます。4番エースとしてチームを牽引し、5割超えの打率、12打点、大会通算最多タイとなる6本の二塁打を記録し、チームを全国制覇へと導きました。

悔しくも優勝投手にはなれず…

優勝を果たしたものの、決勝の日本文理高校(新潟)戦では、6回途中で降板、6点リードした9回に志願してマウンドに上がるも、日本文理打線につかまり再度降板し、後続の投手が優勝投手となる悔しい形で終わりを迎える形となりました。優勝インタビューで悔し涙を流すという異例の事態は高校野球ファンの記憶に残るシーンとして、語り継がれています。

勝利への強い信念、自身の結果に対するストイックさ、なおかつ冷静なプレースタイルから「ベースボールサイボーグ」の異名をとりました。まさに、悔し涙のインタビューが堂林の野球に対する姿勢を物語っていますね。

4番エースとして大きな重圧を背負いながらも、チームを全国制覇へと導いた堂林は、長らく優勝から遠ざかっていた名門・中京大中京高校に43年ぶりの深紅の優勝旗を再びもたらした立役者でもあり、甲子園史上で多くの高校野球ファンの記憶に残る4番エースですね。

「鵜久森淳志」済美高校

「鵜久森淳志」済美高校画像

鵜久森淳志は、北海道日本ハムファイターズ、東京ヤクルトスワローズに所属した元プロ野球選手です。2018年のシーズンを最後に引退を表明しました。

プロ野球で中々思うような結果を出すことができなかった鵜久森ですが、甲子園での活躍は記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。

鵜久森は済美高校(愛媛)の3年時に春夏連続で甲子園に出場しました。今では愛媛の強豪校としても有名な済美高校ですが、鵜久森が出場した2004年の春と夏の甲子園は、創部3年目にして、いずれも同校初となる甲子園出場でした。甲子園初出場ながらも、春の甲子園を優勝、夏の甲子園を準優勝という歴史に残る快挙を導いたのは、紛れもなく4番の鵜久森の力があったからでしょう。

済美の名将・上甲監督によると、鵜久森の入部当初は野球選手とは思えないほど線が細かったそうですが、誰よりも多くバットを振っていたそうで、そのおかげで長打力が開花したそうです。

春の甲子園で2本、夏の甲子園で3本、甲子園通算5本のホームランを含め、高校通算47本塁打をマークした鵜久森は、まさに甲子園ファンの記憶に残る選手の1人でしょう。

「堂上直倫」愛工大名電高校

「堂上直倫」愛工大名電高校画像

堂上直倫は中日ドラゴンズに所属する内野をどこでも守れるユーティリティープレーヤーです。

そんな堂上は、あのイチローの母校でもある、愛知の名門・愛工大名電高校で甲子園出場を3度果たしています。入学当初から高い打撃センスを見せた堂上は、1年生にしてレギュラーを勝ち取り、2年時の春に自身初となる甲子園に出場します。2年生ながらも4番に座り、2本のホームランを放ち、チームの全国制覇に大きく貢献しました。

同年夏の甲子園と、翌年の夏の甲子園にも出場し、甲子園での通算打率は4割8分、高校通算55本塁打と、超高校級スラッガーとして全国に名を轟かせました。

父親の堂上照が元中日ドラゴンズの投手として、星野仙一らとともに1970年代中期に活躍していたこと、また3歳上の兄・剛裕も強打の内野手として、中日にプロ入りしてたこともあって、堂上は野球一家の末っ子として、野球ファンの間では一目置かれるような存在で、高校生ながらもその類まれなる打撃センスは甲子園を大きく沸かせました。

「中村奨成」広陵高校

「中村奨成」広陵高校画像

中村奨成は2017年のドラフト1位で広島東洋カープに入団した右投が右打ちのキャッチャーです。

2017年の夏の甲子園に中村は広島の強豪・広陵高校の3番キャッチャーとして出場しました。

この大会は早稲田実業高校(西東京)の超高校級スラッガー「清宮」が甲子園出場を果たせず、ナンバーワン注目スラッガーが不在の中での大会でしたが、中村が甲子園の記録を数々塗り替える形で新たなスターとして甲子園を沸かせました。

甲子園記録の塗り替え

PL学園の清原が持っていた1大会5本塁打という記録を32年ぶりに塗り替える6本塁打を放ったのをはじめ、最多打点17、最多塁打43、最多猛打賞5など、打撃部門の甲子園記録をことごとく更新しました。まさに甲子園史上最高の実績を残した右打者(バッター)として、今後も長く語り継がれることでしょう。

実は、中村のこの打撃爆発の影には、母親との約束があったそうです。母子家庭として、母の啓子さんは働く合間を縫って、中村の練習に付き合ったり、応援に駆けつけていたりしていたそうで、中村が野球を続けられる環境を女手一つで整えてくれていたのです。その恩返しに「甲子園でホームランを打ってプレゼントする」ことを約束していたそうです。

中村の母に対する感謝の思いがこの大記録を生んだと思うと、非常に感動しますよね。いろんな思いを背負って夢の舞台で戦う高校球児ですが、こういった裏側のストーリーも甲子園ならではの醍醐味かと思います。

甲子園歴代最高の「右打者(バッター)」は誰?のまとめ

いかがでしたか。夏の甲子園で輝きを放った右打者(バッター)はプロ野球でも活躍しているケースも多く、将来のスターが生まれる場所として、野球ファンが甲子園に注目するのも頷けますよね。

皆さんの考えるセンバツ史上歴代最高の右打者(バッター)は誰でしょうか。それでは最後に気になる人気投票ランキングの発表です。

甲子園歴代最高の「右打者(右バッター)」は誰?人気投票ランキング中!のアンケート

「清原和博」PL学園高校

「元木大介」上宮高校

「香川伸行」浪商高校

「平田良介」大阪桐蔭高校

「中田翔」大阪桐蔭高校

「堂林翔太」中京大中京高校

「鵜久森淳志」済美高校

「堂上直倫」愛工大名電高校

「中村奨成」広陵高校

アンケートまだまだ募集しています!皆さんのご意見も是非教えてください。

甲子園歴代最高の「右打者(右バッター)」は誰?人気投票ランキング中!のアンケート

「清原和博」PL学園高校

「元木大介」上宮高校

「香川伸行」浪商高校

「平田良介」大阪桐蔭高校

「中田翔」大阪桐蔭高校

「堂林翔太」中京大中京高校

「鵜久森淳志」済美高校

「堂上直倫」愛工大名電高校

「中村奨成」広陵高校

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