【鈴木敏夫】宮崎駿に惚れ込み、宮崎駿に惚れられた男|ジブリ人気投票も!
スタジオジブリに一番重要な人物といえば?
スタジオジブリといえば、真っ先に名前があがるのが、宮崎駿と高畑勲の2人の日本を代表する映画監督なのではないでしょうか。実際に二人の監督なしでは、スタジオジブリの成功はなかったと言えるでしょう。
しかし、もう一人、スタジオジブリに欠かすことができない人物がいます。それはプロデューサー「鈴木敏夫」です。宮崎駿や高畑勲ら天才の力を存分に引き出す鈴木敏夫のプロデュース力があったからこそジブリは成功したと言えるでしょう。ここでは、鈴木敏夫はどういった人物なのかを紹介していきます。
プロデューサーとしての手腕も凄いが、マネジメントも凄い!!
宮崎駿は何かとすぐに怒るということで有名。さらに宮崎駿は天才であるため、普通に考えれば最も扱いにくい(=マネジメントしにくい)存在であることは間違いありません。しかし、鈴木敏夫は宮崎駿が怒り出したら、『また何かいってる』と子供のわがままとして扱うことで、軽くいなしてしまうとのこと。しかも鈴木敏夫の方が、7歳も若いのにもかかわらず、あの宮崎駿に対してそのような態度をとるといわれています。実際に、スタジオジブリのスタッフが宮崎駿に対して『高畑勲さんが長男、宮崎駿さんが次男、鈴木敏夫さんが三男。上二人がいろんなこと言うから鈴木さんは大変。』といったことに対して、宮崎駿は『それは見方が違う。鈴木さんは僕らの父さんなんだ。』と。この会話に宮崎駿と鈴木敏夫の関係が集約されています。
鈴木敏夫の凄いところは、誰とでも信頼関係を築き上げることができること。取引先、協賛企業、映画に関わる全ての関係者に、お互いにオープンな関係を築き上げ、一丸となって映画の成功へ向け突き進む体制を整えることで、鈴木敏夫は映画を成功へと導くプロデューサーとして活躍してきました。
宮崎駿と高畑勲に惚れ込んだ男、それが鈴木敏夫
ではどのようにして、鈴木敏夫と宮崎駿が今のような関係を築いていったのでしょうか。鈴木敏夫が語る宮崎駿との出会いを紹介します。
鈴木敏夫がアニメージュの編集長をしていたころ、女子高生の「太陽の王子 ホルスの大冒険」という名作があるという情報だけで、8ページ記事を埋めてやろうという魂胆で映画制作者へ連絡を取りました。それが監督を務めた高畑勲でした。高畑勲は、1時間以上しゃべったあとに取材には応じないと断ったあげく、そのあと制作に関わったもう一人と電話をかわりました。それが制作に関わった宮崎駿でした。宮崎駿もまた、16ページだったら取材に答えると訳のわからないことをいったといいます。当時の鈴木敏夫は『なんだこいつら』と思ったそうです。この話だけ聞くと、鈴木敏夫が一番まともに見えますが、実はこのときは鈴木敏夫は「太陽の王子 ホルスの大冒険」を一度も見ずに取材していたという、豪快さが伝わるオチがついてきます。
その後、実際に「太陽の王子 ホルスの大冒険」を見た鈴木敏夫は、作品の内容に衝撃を受け、人生感が変わったといいます。すっかり宮崎駿と高畑勲に惚れ込んだ鈴木敏夫はその後、宮崎駿と高畑勲に改めて取材を申し込みました。しかし、宮崎駿は鈴木敏夫に厳しく、『あなたたちがつくっている雑誌はくだらない』と再度取材拒否。会いさえしてくれませんでした。
宮崎駿は当時「ルパン三世 カリオストロの城」の映画制作中でしたが、鈴木敏夫が宮崎駿のところに押しかけ、無理やり取材をしようとしました。しかし、宮崎駿は無視。ここからが鈴木敏夫のすごいところ。宮崎駿の横でずっと待っています。朝9時に来て、宮崎駿の横に座って、無視され続けて、翌朝4時に宮崎駿に『帰ります』と言われて解散。この状況が数日続いたといいます。諦めない根性で宮崎駿に近づき、最終的に根負けした宮崎駿が口を開いたといわれています。鈴木敏夫はこのことを、『僕としては、口を割らせることが仕事ですよね』とよくインタビューで回答しています。
どうしてそこまで宮崎駿と高畑勲にこだわるのか。インタビューでこう答えています。『自分より優れた才能を持っている人に出会ったから。その一点。自分より優れた才能を持った人がいて、そしてその才能を世間に出したいと思った。だって、ほっといたらその才能は埋もれちゃうわけじゃない?』と。世話好きな鈴木敏夫ならではのコメントでありますが、それほど二人の才能に惚れてしまっていたことが伝わります。
宮崎駿と高畑勲に惚れられた男、それが鈴木敏夫
鈴木敏夫は、1981年にようやくアニメージュにて宮崎駿を特集した後、1984年の「風の谷のナウシカ」の制作に尽力します。そこで宮崎駿と高畑勲との距離をさらに縮めることになります。
「風の谷のナウシカ」の映画化することに『原作がない作品はダメ』という理由で、どうしても所属する徳間書店がGOサインを出しませんでした。そこで「風の谷のナウシカ」の漫画を宮崎駿に書かせることで、無理やり原作をつくります。映画化のため、昼は宮崎駿と一緒にアニメーションスタジオ、夜は徳間書店という二重生活を送ったほど。しかし、この準備期間が、二人との関係が深まるきっかけとなります。
漫画が連載され1年くらい経つと、ようやく映画化にGOサインがおり、映画制作を開始することに。宮崎駿の強い希望もあり、プロデューサーに高畑勲を起用しようとしますが、案の定断られることに。鈴木敏夫は毎日高畑勲のもとへ訪れ、説得することになります。それでも理屈っぽく断ろうとする高畑に対し『高畑さん、あなたは宮崎さんの友人でしょ。その友人が困っているんですよ。そんなときに、あなたは力を貸そうとしないんですか。』と声を荒げたそうです。この言葉が高畑勲に響き、プロデューサーに就任することなります。このとき初めて、鈴木敏夫、宮崎駿、高畑勲が3人揃って仕事をすることになります。
後日、鈴木敏夫は『僕はプロデューサーという仕事を、このときプロデューサー初体験だった高畑さんから学んでいくんです』という言葉を残しており、高畑勲と鈴木敏夫は共になれない仕事に翻弄されながら、宮崎駿と「風の谷のナウシカ」を作り上げました。
「風の谷のナウシカ」のあと、スタジオジブリを立ち上げ、2人の天才をより自由に制作できる環境を整えていきます。宮崎駿と高畑勲にとってはよっぽど居心地が良かったのか、それ以降2人は30年以上スタジオジブリに所属し続けます。最初は鈴木敏夫の一方的な『ラブコール』から始まった鈴木敏夫と宮崎駿と高畑勲の3人の関係。しかし今では、宮崎駿に『鈴木さんは父さんなんだ』と両思い(宮崎駿は否定している)の間柄になっています。さらには、30年以上も3人がなぜうまくいっているのかという答えを宮崎駿は思いついたといい出し、その答えが『お互いがお互いを尊敬してないんだよ』と。もうそこまで言い合える仲の時点で、尊敬しあっていることがよく伝わります。
今では日本を代表するプロデューサー
せっかく惚れ込んだ宮崎駿と高畑勲の2人の天才をつなぎとめる場所、スタジオジブリ。今では映画を作れば興行収入100億円を超え、誰もが知る作品がずらりと並びますが、決して順風満帆ではありませんでした。とくに2人はお金のことなど全く考えない、自分の好きな作品を作ることばかり考えている、いわゆる天才です。
実はスタジオジブリ設立後の「天空の城ラピュタ」、「となりのトトロ」、「火垂るの墓」の興行収入は芳しくありませんでした。配給会社の東映の人からは、「宮崎駿もこれで最後だね」といわれ、お金のことを意識するようになり、「魔女の宅急便」ではクロネコヤマトとスポンサー契約を結んだり、日本テレビと提携しマーケティングしたり、様々な営業・広報活動を行い、興行的に大成功を収めます。それ以降プロデューサーとしてスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげていきました。
2人の天才と、その才能にに惹かれスタジオジブリに集まる優秀な人材たちを支え続け、ビジネスを成功へ導くプロデュース力を持つ鈴木敏夫こそ、スタジオジブリに最も必要な存在なのではないでしょうか。
スタジオジブリの作品には一貫した主張がある
最後に、スタジオジブリの作品が語る内容について紹介します。
スタジオジブリ作品にはエコロジー(自然環境を保護し、人間の生活との共存を目指すという考え方)と争い(戦争)について、触れることが非常に多くあります。トトロの愛嬌に注目されることが多い「となりのトトロ」も『日本にはまだこういう生き物がいるかもしれない、自然を大切にしなければいけない』というメッセージが込められています。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」、高畑勲の「火垂るの墓」などもそれに該当します。
スタジオジブリは一貫として主張する「戦争と差別を憎み、平和を希求する精神」、一度そこに注目をしてもう一度スタジオジブリの作品を見直してみてはいかがでしょうか。今までみることのできなかった、宮崎駿や高畑勲の両監督、そしてプロデューサーの鈴木敏夫が主張する、「人間そして生命の尊厳」を感じることができ、改めて作品の素晴らしさを知ることができるでしょう。
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