【宮崎駿の激動の人生】40歳までの不遇に耐えた遅咲きの天才|ジブリ人気投票も!
日本を代表する映画監督「宮崎駿」。1941年1月5日生まれ。スタジオジブリを制作基盤とし、長編映画の監督として11本の作品を残し、そのほかにも長編映画の脚本や企画、短編映画の監督など、宮崎駿の関わった作品を数えだしたらきりがありません。彼の監督作品を1作品も見ていない日本人はいるのでしょうか。監督として大成功を収めた宮崎駿でしたが、彼の制作者としての人生は決して順風満帆ではありませんでした。
遅咲きの監督デビュー、初監督作品は38歳のとき
宮崎駿の少年時代は『漫画少年』でした。絵は抜群にうまく、将来は絵を描く漫画家になる夢があったといわれています。大学時代に漫画サークルがなく、文化研究会に所属しながら漫画を書き続けましたが門前払を受け続け、結局アニメーションの世界に進むことに。スタジオジブリの高畑勲、ルパン三世の大塚康生らとは、1963年大学卒業後に入社した東映動画で出会っています。その後制作社をヘッドハンティングで転々としながらも、Aプロダクションでは1971年に後の国民的アニメ「ルパン三世(第1シリーズ)」、1974年に日本アニメーションでは最高平均視聴率が26.9%と大ヒット作品「アルプスの少女ハイジ」と、様々な有名作に関わっていきます。
その結果、1978年にNHKで事実上の監督作品(厳密には監督ではない)を任され、「未来少年コナン」の制作します。ルパン三世などで見せた(詳しくは「テレビアニメ【ルパン三世(第1シリーズ)】の魅力を徹底解析」)持ち前の作家能力を生かし、原作を大幅改編し、オリジナル(に近い)作品に仕上げました。しかし、宮崎駿の原点ともいえる作品の視聴率は低調と結果を残すことはできませんでした。それでも、アニメーターや演出家には大絶賛であり、後に評価を見直された作品となっています。
しかし、その後すぐに人生最大のチャンスが回ってきます。1979年当時国民的アニメへ成長した「ルパン三世(第2シリーズ)」の映画の話が持ちかけられます。東映動画で一緒だった大塚康生が劇場版第1作「ルパンVS複製人間」で大ヒットした後、第2作制作に気が乗らなかったため、宮崎駿を映画監督として指名しました。宮崎駿も1971年に「ルパン三世(第1シリーズ)」に関わっていたため、今更とあまり乗り気ではなかったものの、映画監督というチャンスもあり受けることに。この時すでに38歳、日本を代表する映画監督としてはかなり遅い監督デビューとなりました。
監督デビュー作品としては大失敗…
初監督作品として、ストーリー考えるのに2か月、映画制作に4か月という超短期で映画が作られた作品が1979年に公開された「ルパン三世 カリオストロの城」です。宮崎駿はこの時、『この作品で初めて自分の体力の限界を知った』と語っています。実はここで持ち前の作家能力を生かし、「ルパン三世」のイメージそのものを変えています。
原作漫画や当時放映されていたルパン三世の年齢設定をかなり引き上げ、もともとハードボイルドで描かれていたルパン三世を『優しい泥棒』へと変身させています。この時の宮崎駿の言い分が実にユニークで、『ファンの知っているルパンよりも人生経験を積んできたのだから、当然これまでのイメージと異なっていても不思議ではない』と表現しています。簡単にいってしまえば、宮崎駿の描きたかった世界観に無理やりルパン三世たちの年齢を引き上げた形になります。実際に宮崎駿が後日、「カリオストロの城は小学生ぐらいのときからやりたかったことなんですよ」と発言しており、そのわがままの犠牲になったのがルパン三世ということになります。
しかし、当時の「ルパン三世(第2シリーズ)」のイメージと違う作風や、「宇宙戦艦ヤマト」などのSFアニメ全盛ということもあり、興行的に大失敗という結果に。「未来少年コナン」に続く失敗に、当時の宮崎駿は評価を落としてしまうことになり、しばらく不遇の時を過ごすことになります。
皆さんご存知の通り「ルパン三世 カリオストロの城」は、「未来少年コナン」同様に後に再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高く評価されています。今では、ルパン三世を知るきっかけとなる作品といわれたり、ルパン三世のイメージはカリオストロの城のルパン三世といわれたり、原作漫画のルパン三世よりも国民へ強い影響を与える作品になってしまいました。
宮崎駿不遇の5年間…
2作続けての失敗もあり、1979年以降なかなか映画監督のオファーがない不遇のときをどのように乗り越えたのか。それは後のスタジオジブリが誇る有名なスタッフたちの活躍がありました。
「ルパン三世 カリオストロの城」制作当時、アニメージュ副編集長として取材に訪れた鈴木敏夫と出会いました。宮崎駿の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は、持ち前の人望で宮崎駿や高畑勲を取り込み、宮崎駿の原案企画の映画化を目論み奔走していきます。当時の鈴木敏夫の所属する徳間書店の企画会議になんとか映画制作を通そうとしましたが、『原作のないものを映画化することはできない』と却下され続けていました。
しかし、徳間書店のアニメージュ編集長の尾形英夫は「未来少年コナン」から宮崎駿の才能に目をつけており、鈴木敏夫に『無理やり原作を作ってみては』と考案しました。その結果、鈴木敏夫は漫画を描ける宮崎駿の才能をフルに利用し、アニメージュにて「風の谷のナウシカ」の漫画の連載にこじつけます。そして漫画「風の谷のナウシカ」というハクをつけることに成功。さらに『策士』鈴木敏夫は短編アニメという企画から徐々に話を膨らませ、徳間書店の社長より劇場版の制作の許可を得ることに成功しました。
宮崎駿の才能に惚れ込んだ友人と、様々な幸運とが重なり、宮崎駿は再び映画監督のチャンスをもらうことに成功します。
評価され始めたのは40代になってから!
周囲の支えで得ることができた最後のチャンス、1984年に公開された映画「風の谷のナウシカ」は、43歳の監督作品になります。結果としては、大ヒットとまではいきませんでしたが、十分に評価できる興行的成功を収めることができました。宮崎駿自身、興行的成功については『ものを作るチャンスがまた巡ってくるかもしれないと思って、ほんっとにホッとしたんですよ。運が良かったと思って』と語るほど、背水の陣で挑んでいたことが伝わります。
しかし、宮崎駿の評価は1980年以降徐々に変化していました。失敗というレッテルを貼られていた「ルパン三世 カリオストロの城」はテレビ放送された後、評価が急上昇。改めて宮崎駿の作品の素晴らしさを認知され、徐々に評価を取り戻していました。そんな宮崎駿の最新映画作ということもあり、自らの力でもぎ取った成功ともいえるでしょう。
宮崎駿の激動の人生 後編へ
以降、スタジオジブリの立ち上げ、様々なヒット映画作品の制作というイメージが強いですが、そこにも様々なドラマがあり、順風満帆というわけにはいきませんでした。様々な人たちの努力もあって今の宮崎駿、今のスタジオジブリがあります。
- 詳しくは本記事の後編を参照ください
- 【宮崎駿の激動の人生 後編】40歳までの不遇を乗り越えた遅咲きの天才
宮崎駿、スタジオジブリの作品には一貫した主張がある
最後に、宮崎駿の作品、スタジオジブリの作品が語る内容について紹介します。
スタジオジブリ作品にはエコロジー(自然環境を保護し、人間の生活との共存を目指すという考え方)と争い(戦争)について、触れることが非常に多くあります。トトロの愛嬌に注目されることが多い「となりのトトロ」も『日本にはまだこういう生き物がいるかもしれない、自然を大切にしなければいけない』というメッセージが込められています。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」、高畑勲の「火垂るの墓」などもそれに該当します。
スタジオジブリは一貫として主張する「戦争と差別を憎み、平和を希求する精神」、一度そこに注目をしてもう一度スタジオジブリの作品を見直してみてはいかがでしょうか。今までみることのできなかった、宮崎駿や高畑勲の両監督、そしてプロデューサーの鈴木敏夫が主張する、「人間そして生命の尊厳」を感じることができ、改めて作品の素晴らしさを知ることができるでしょう。
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